Author: gashu
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情報と経済
mozilla.org から派生した、beonex.com。このオープンソースの状況の中では Beonex は今後興味深いものになる可能性を秘めている。これは、バーチャルカンパニーで、オープンソースのプロダクトをエンドユーザに向けた形でリリースして、かつサポートも設けよう、といったもので、つまるところ、営利企業に対して足りない部分を補完するものだ。 一連の流れを見る中で、思い付いた点がある。現在のシチュエーションは、こうだ。情報化自体が経済活動を促進させている。それはつまり情報化に対して対価が支払われることを指す。これは実に産業革命以降の流れと何ら変わらないものではないか。実に、情報革命という言葉が真に意味を持つのは、情報化がされた上で、その上で動く経済活動がより最適なもの~それは淘汰であるのかも知れない~になった時点ではないだろうか。 情報化自体が経済活動を促進させる段階では、情報化によりコストを掛けることの出来る企業が有利ということになる。もし、コストを掛けられる・掛けられないに関わらず、同じ道具としての情報技術を使うことが可能だったならばどうだろう?油田からオイルを汲み上げるポンプのごとく毎年何万ガロンも浪費されてるようなそのコストは何処に回るのだろうか?そこで経済のパラダイムが起こるのではないか。 ぼくが大学に通っていた頃、経済学は散々なものだった。ぼくが学んだ経済学部では、すべからくマクロ経済の教諭は、ケインズ以降の経済学は失敗であったこと、経済自体のパラダイムを必要性を教壇で語っていた。失敗要因は、地球環境問題でもあり、加速した資本主義構造における民間の投機と破綻でもある。それは日本に限った問題ではない。 彼らは何に期待したか。それは情報化に他ならない。「情報化」と経済を結びつける切り口は、エンドユーザーコンピューティング(これは恐ろしい数の半導体や主記憶や筐体、磁気体というハードウェアが売れたに過ぎない。車が売れるのと何ら変わらない。)が流行するより以前に、メディア論や表象文化の中で語られてきた。つまり概念論が先行していた。具体的な解決策が示されるものではなかった。 ハードウェアのリサイクルを使って、フリーのソフトウェアを使って、それでも超並列型大型汎用機と高価な新型のワークステーションに張り合える状況はもう既にある。要は使い方だ。そこに踏み切れるか否かは経営判断だ。そこでリスクを取れるかっていうのは、老人の知恵と少年の潔癖、それから未来的なビジョンがあるか、という部分。 現在流行で使われる「情報化」が、違う意味を持つ頃、経済学は次の段階を見つけることが出来るのではないだろうか。人間の思想性の無い情報化は浪費でしかないことに一部の人達は既に気付いているだろう。 ひとつ思い出された、恩師の言葉: 「情報学科とか環境学科とかそういうのに流行りで行く学生が多いんだけどね、でもぼくはそういうものは付加的要素っていうか、先々あまり役に立つとは思えないんだよ。そりゃ先数年は役立つかも知れないけど、その下にあるような、経済とか法律とか文学とか、そういうものの方が、年十年も経って忘れた頃に役に立つと思うんだよね。」