D.T.A.O.T.

“Don’t Trust Anyone Over Thirties(30代以上の奴らを信じるな)”と最初に言ったのは誰だったっけ?と、夕食に掻揚げ蕎麦を食している最中にふと思った。

ジム・モリソンだったか、ポール・ウェラーだったか。ひょっとしたら、シド・ビシャスだったか。時期的に一番早いのはジム・モリソンだけど、やっぱりポール・ウェラーだったのかな。JAMが生きてた頃にはピストルズもいたんだっけ?

そんなことよりも、当時その言葉を聞いて信じた人たちは、間違いなくその世代を越えているので、その人たちにとってのリアルというのは、現在どういうところにあるのかな、というのを漠然と考えた。ジム・モリソンが仮にそういうことを言っていたとしても、それを聞いた人たちってもう40代も越えていることになるし。

ピストルズのリバイバルで乗っかったような若い世代の人たちは、もっと距離置いて見てるのだろうか。マニック・ストリート・プリーチャーズの4REALっていう自虐的な刻印ももはやパロディーでしかない時代に。

それから、どう結びついたのか、数年前に入院した際に辻仁成(つじひとなり)の小説を何冊か読んだことを思い出した。彼の音楽は、というか、辻仁成(つじじんせい)がいたバンドのECHOESは正直好きではなかった。なんだか青臭さが生理的に受け入れられなかったし、今聴いても同じだと思う。代表曲、と呼べるかわからないけれど、”ZOO”は、川村かおりが歌った方が好きだった。管野美穂のカバーは、ECHOESと同じ感触で好きにはなれなかったし。「愛をください」ってなんじゃそりゃ?って思ってしまう。でもツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」はいいな、と思ってしまうから不思議。

つまりは、異なる世代の対話についての思い付きだったのだと思う。結局、50代の人、80代の人だって、格好良い人は格好良いし、若さを保っている人はいる。逆に、10代だって、20代だって、そうでない人もいたりする。

近代、特にこの50年くらいの間って、世代上の人たちに対してコミュニケーションをとる場合のもどかしさ、というのがひょっとしたらあったんじゃないか、と思う。日本の場合は、団塊の世代に起きた事件とその後の流れ、その子供達の世代にとっての現実。

僕は、いつからか、一年を一時間として捉えるようになった。24歳上の人は、僕よりも1日多く生きた人、というくらいの捉え方をしているし、その方がいろいろ楽な気はする。別に長く生きたからって、人格的に大きな差があるわけじゃないし、あまり変わらないんだっていう前提に立って話した方が、引き出せる話が多かったり、感銘を受けることが多いし、それが直接敬意に繋がったりする。そういえば、新宿の思いで横丁でおごってくれた会社社長は、「引退したらバックパッカーになって、世界中を行脚するんだ!」って言ってたな。彼は元気だろうか?

とか、そういうことを考えながら、掻揚げ蕎麦を平らげて、ハイライト一本吸って、840円支払って、店を出た。12月はそういう思考が巡りがちだから不思議だ。


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